疲れた身体に死が沁みる。『17歳からの死生観』

1週間働いて疲れた金曜日。ふらふらと駅前の書店に立ち寄って、こんな本を買いました。

山折哲雄という宗教学者が書いた『17歳からの死生観』。

さいきん、死に関することを考えるとなぜかリラックスできることに気づきました。この前書いたロスの『死ぬ瞬間』もそうです。たぶん日常や仕事上の雑事なんか、死を前にすればみんな取るに足らないことだ、ということなんでしょう。

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『17歳からの死生観』

この本は「日本の次世代リーダー養成塾」というすごい名前のサマースクールに集まった高校生に、山折さんが講義をし、対話をした記録をまとめた本です。

講義録に入る前の序文を「日本の次世代リーダー養成塾」の事務局長が書いています。さすが「日本の次世代リーダー養成塾」だけあって、意識の高いことがたくさん書いてある。ぼくはここで面食らってしまい、あとの講義録を純粋な気持ちで読めませんでした。残念なことに。

それでも、印象に残る言葉はある。

ところが、美しい自然の中を歩いているときに、「今ならいいよ」っていうときが、たまにある。ほとんどは、「今駄目だ」と私は答えている。天の声に。しかし、今なら、まあ、このすばらしい自然の中にすっぽり身を包まれて、あの世に行くのも悪くないな、と思うときがないではない。

これは、すごくわかる。美しい自然のなかに入っていくと、自分という存在がなくなってしまうような感覚はたしかにある。あとは温泉に入っているとき。この状態こそ「悟り」の境地なのではないか、ということを前野隆司さんが『思考脳力のつくり方』という本で述べていた気がする。

縄文時代、狩猟採集の生活をしていた人間たちは山の中、森の中に住み、人間と動物とを対等の関係で考えて生きていた。動物の狩りをする。しかし逆に、人間も動物に襲われて食われる。そういう縄文時代の狩猟社会の人間たちの感覚。

うーむ。現代に生きるぼくらはもう動物に食われることを恐れることなどなくなりました。殺人というのは人間が人間に対して行う行為のみを指している。でも動物に殺される可能性だってあるわけだ。動物に殺されたひとの遺族は、人間に殺されたときと同じ反応をするだろうか。

そういう湿潤な風土にあらゆるものがある。海の幸、山の幸、川の幸。なにも天上の彼方に唯一価値のあるものを求める必要がない。

日本では一神教よりも多神教、論理よりも感情を優先させる宗教が根付いてきた理由をこう書いている。たしかに、まわりを見渡せばいろいろなものがある。日本には。そのひとつひとつに神がいると考えるようになるのは、けっこう簡単なことだったんじゃないかなと思う。

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