木田元『哲学は人生の役に立つのか』から幸福と死を垣間見る

『哲学は人生の役に立つのか』という身も蓋もないタイトルの本を読んだ。一昨年亡くなった哲学者、木田元の新書である。

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「幸福」なんて求めない

序章は幸福について。バブル崩壊後に台頭してきた「身の丈に合った」幸福を求める風潮に対して、木田さんは幸福になりたいという気持ちが理解できないと言う。日本人のいう幸福とは、「他人よりもいい暮らしがしたい」という気持ちがベースになっているのだ、と。

では欧米の哲学者は幸福についてどのように考えたのか。

ニーチェは最後に『力への意志』という表題の主著を書こうとしました。「力への意志」が彼の最後期の思想のキーワードなのです。生きるということは、「現にあるよりもより強く、より大きくなろうとすること」だと考え、それを「力への意志(Wille zur Macht)」という妙な言葉で捉えたのです。

ハイデガーはそう解釈しています。ですから、「力への意志」ということでニーチェが捉えたのは、生命が絶えず生成しているその動き、そのダイナミックな構造のことなのでしょう。そして、存在するものすべてが、そういった意味で生きているものだと見ているのです。こんな立場では「幸福」など問題になるはずはありません。

なるほど。「身の丈に合った」幸福で満足するようになったぼくら、つまり富・名誉・権力を貪欲に求めなくなったぼくらは、たんに富・名誉・権力を捨てたばかりでなく、それを求めるための運動である「貪欲さ」を捨ててしまった。

考えてみれば「貪欲に」という副詞は、形容詞の否定形と相性が悪い。「貪欲に求めない」というのはなにか腑抜けた言葉になってしまう。

ニーチェがこういうことを考えていたかどうかはわからないが、「幸福」が主流となった現代(とくに若年層)では、「力への意志」はその力を失ってしまったのかもしれない。

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死ぬための生き方

終章は、死について。「正しく哲学している人びとは死ぬことの練習をしているのだ」というソクラテスの言(プラトンの『パイドン』に登場)などを引用しつつも、話題は木田の個人的な話へ移行する。

(死への対し方が昔とは違ってきていることについて)これは哲学のおかげということではありません。それよりも親しい友人や、父の死に方を見ていて感じたことのほうがはるかに大きいと思います。

木田の父親は、山形県新庄市の市長を務めた「模範的な官吏」だったそうだ。市長をやめたあとも山形県のさまざまな役職に就いている。死の直前まで比較的元気に生きていたが、それでも頻繁に肺炎を起こすようになっていた。いよいよ集中治療室に入ることとなる。

ところが私は、集中治療室に入るということの意味を思い違いしていました。一時そこに入っても、容態が回復すればまた出てこられるものと思っていたのです。しかし、集中治療室に入るということは、麻酔をかけて気管切開をして死を待つということでした。

目の前でキャスターに寝かされた父を見送っていますと、私の顔を見て「いろいろ世話をかけたな」と言って通り過ぎていきました。そのときになって私は、ハッと自分の思い違いに気がつきました。しかし、もうキャスターは集中治療室に消えていました。そうと知っていれば、もう少しなんとか別れの言いようがあったのに、と思いましたが、もう手遅れでした。

『死ぬ瞬間』という本を読んでから、死を臨む瞬間を切り取った文章にすごく注目するようになった。というより向こうから飛び込んでくる。「こういう生き様もあるんだぞ」というように。

読書もまた、死ぬことの練習なのだ。

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ちなみに、哲学が人生の役に立つかどうかについて木田は、「哲学は少なくとも私の人生にとっては無くてはならなかったもののようで、つまりは私の人生に役に立った」と結論している。世のため人のためになるという実利的な意味では役に立たないけれど、哲学に出会うことによって救われたのは間違いない、と。

哲学はぼくの人生に役立つだろうか。それはもう少し生きてみないとわからなさそうである。

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