大阪と奈良のあわい

一ヶ所にとどまっていることが苦手なのだろうと思う。決して退屈しているわけではないのだが、心はいつもふわふわと、あっちへ行ったりこっちへ来たりを繰り返している。どこかへ行かなければ、という能動的な意志があるのではない。心の赴くままに、2つの場所を無周期的に揺れ動いている。

ぼくはその2つの精神的な場所に、大阪と奈良という名前をつけて観察するのだ。

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大阪的な、奈良的な

大阪にいるときは、晴れていて、ひとがたくさんいて、よくしゃべる。未知の体験に貪欲で、何にでも興味を抱く。よく食べるし、よく笑う。いつもより大股で歩き、酒を飲み、あまり眠らない。徹夜でボウリングをする。

一方奈良にいるときは、雨が降っていて、動物がたくさんいて、自分自身とよく会話する。温度や湿度の変化に敏感になり、本を読み、文章を書く。スマートフォンは見ずに映画を観る。散歩をする。音楽を聴き、音楽をつくる。

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大阪と奈良の間を移動するときは、相が変わる感覚がある。氷が水になり、また水が氷になるように。植生が針葉樹林から広葉樹林に変わるように。

相が変わるときはいつも、新鮮な気づきを伴う。毎日通っている道の脇にきれいな花を見つけた、あたたかい驚きの感覚に近い。あるいは、家から遠く離れたところで迷子になるほど遊び、いつ終わるとも知れない帰り道、急によく知った景色に出くわしたときのような感覚。

それはそうだ。どちらも、自分にとってはなじみ深い場所だからだ。懐かしくもなる。

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往復 – 波 – 螺旋

大阪にいる自分、奈良にいる自分、どちらが本物なのだろうかと考えたこともあった。そんなときは決まって、今いる場所が本物だ、あっちは一時の気の迷いであって、幻想にすぎないと答えてしまう。リアリティが桁違いだからだ。

だが、何度も大阪と奈良の往復運動を繰り返していると、さすがに理解するようになる。どちらかが本物でどちらかが偽物だという話ではないのだ。そしてさらに理解する。往復運動というのは物事の一面に過ぎず、実は波のように全体が方向を持った運動だったのだ、さらには螺旋のように奥行きを持った運動だったのだと。いつも同じ場所に戻ってきたと思っていたが、それは物事の一面に過ぎず、ほんとうは前と少し違う場所なのである。

螺旋運動のイメージは、往復運動のイメージよりずっと豊かだ。くるくるとまわりながら何度も大阪や奈良を訪れるたびに、少しずつ違ったものの見方を獲得していけるような気がする。そして螺旋のイメージは、訪れる場所は大阪や奈良だけにとどまらないことも教えてくれる。大阪を出発して、ぐるっと一周近畿巡りをしてもよいのだ。

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チューニング

いま奈良にいるのに、大阪的なイベントに参加しなければならないことがある。逆に大阪にいながらにして、奈良的な作業をこなさなければいけないときもある。そんなときは、心身のチューニングをしてやればよい。

賑やかで、ひとが大勢集まるイベントには参加するけれど、その後の懇親会には行かずにまっすぐ帰る。落ち着いた自分との対話が必要な作業をする前に、少し本を読んで気分を集中させる。

いつも身体に聴くことが大切だ。

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雨の奈良

雨の日の奈良はよい。雨上がりはもっとよい。道端にけっこう貫禄のあるカタツムリがいて、ぼくを驚かせる。東京ではこのサイズはなかなかお目にかかれないだろう。

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きょうのおすすめ

冬の奈良をぶらぶらしながらよく聴いていたアルバム。

『放課後の音楽室』はゴンチチの代名詞的な曲だが、ギター2本のパン振りが極端すぎて笑ってしまった。イヤホンで聴き続けると頭が痛くなるかもしれない。

ゴンチチがパーソナリティを務めるラジオ「世界の快適音楽セレクション」のオープニングにも使われている『塩と太陽』。タイトルから想像するギラギラしたイメージとは違ってさわやかな風が吹き抜ける。

『Belly’s』にはハーモニックマイナーパーフェクトフィフスビロウという、ラーメン屋の呪文みたいなスケールが使われていて、中東・インド感がうねる。とても興味深い曲。

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