割り算の・働くことの・人生の・選挙の、意味。森田真生さん「寺子屋数学ゼミ」から

6月のことであるが、森田真生さんという独立数学研究者が主催する数学ゼミに参加してきた。非常にエキサイティングであった。

大学を卒業してしまい学術的な「勉強」に飢えていたぼくは、講義もさることながらゼミで出た宿題というものに歓喜した。宿題が出てこれほど喜んだことはない。次回のゼミの直前になって焦るのは目に見えているが、それすらも楽しめそうな勢いである。

この数学ゼミ、正確には「寺子屋数学ゼミ -岡潔の世界-」といって、大阪豊中市の練心庵という庵でひっそりと開かれている。数学者、岡潔の思想をたどりながら、「人間とは何か」「自分とは何か」を考えていくのである。

ところどころ、コーシーの積分定理だのリーマン面だのといった、数学をあまり勉強したことのないぼくには難しい単語が飛び出してくるが、森田先生がそれを楽しそうに語ると、なぜかわかったような気持ちになってしまうのが不思議だ。

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分数の割り算の意味

ゼミの中で、分数の割り算の意味が分からない子どもにその意味を教えようとするのはいけない、的なことを先生が言った。いわく、シンタックスとセマンティクスは分離して話をすすめるべきだと。

分数の割り算の意味がわかりたいという子どもの欲求はよくわかる。自然数どうしの割り算、たとえば「1枚のピザを3等分しました」というときの1÷3は直感的に分かりやすい。イメージも容易である。これと同じように、分数同士の割り算2/3÷4/5も理解したいのだが、これが難しい。イメージできない。あげく、意味が分からないからもうやりたくない、となってしまうのだ。

シンタックスとは簡単に言うと運用規則のこと、セマンティクスとは意味のことである。割り算というのは、割るほうの数(上の例では3や4/5)の逆数をかけなさい、というシンタックスのことである。そこにセマンティクスがあるかどうかは別にして、そういう規則にもとづいた処理を「割り算」と名付けた、ただそれだけのことなのだ。

したがって、分数の割り算の意味が理解したければ、ただひたすら分数の割り算を繰り返せ!ということになるらしい。分数の割り算を説明してくれるものは、分数の割り算という世界の外にではなくて、分数の割り算の中にしかないよ、ということだと。

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働くことの意味

妙に納得してしまった。世の中そういうことばかりである。働く意味がわからん、などはその代表格だろう。ぼくにも働く意味がわからんと言って寝込んでいた時期があったが、じつは働くことにはもともと意味なんてなくて、ぼんやりとした「働く」のシンタックスが与えられているだけなのかもしれない。

そして淡々と働いてみることで、ある日、働くことのセマンティクスを獲得するのかもしれない。もちろん、一生わからないのかもしれないが。

人生の意味

あるいはもっと包括的に、人生の意味がわからん、などもそうだろう。こちらは働くことなんかよりもっとずっと意味がわからん。ぼくの感覚的には、日本で人生の意味がわかってるひとなんてほんの2人程度で、あとの98人は人生の意味がわからんと悩んでいる。そして残りの1.2億人はそもそも人生の意味について考えたりはしないのだ。

実際に生きてみるという具体的な行動を通じてしか、その意味を獲得するチャンスは訪れない、ということだけは確かなようである。

選挙の意味

意味ということで言えば7月10日の参院選。選挙なんて国民を挙げて意味がわからんことの代表みたいな感じではなかろうか。そんなことはない、選挙には意味がある!という主張は、昨今の低い投票率をどう説明するのだろう。とにかく選挙に意味を見いだせないひとは少なくない。

選挙に行く意味もやはり選挙に行くことでしか獲得できないのではないか。ぼくには「若者の投票率が上がれば〜」とか「あの投票用紙の書き味は一度体験しておくべき」といった選挙のススメよりも、選挙には意味がないけれど行けば意味がわかるかもしれない、と言われたほうがよほどしっくりくる。

人生の意味もわからんのに選挙なんて行ってられるか、という向きもあるかと思う。確かに、より大きな、より基礎的な概念の意味がわからないとその上に成り立つものの意味もわからなくなってしまうのが数学だ。

だが人生は数学ではない。上で述べたように、人生の意味は生きるという具体的な行動を通じて獲得されるものだとすれば、選挙に行くというのも立派なひとつの「生きる」ことに他ならない。それはどうして人生の意味への一歩とならないであろう?

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巷でよく聞く「やってみなきゃわからない」という言説は、ちゃんと言うと「やってみなきゃ結果がわからない」の意味である。この場合、結果が見えてきた時点で、行動を続けるか止めるか判断してしまうだろう。

だがそれにプラスして、「やってみなきゃ意味がわからない」という考え方も採用すると、掴みかけていた意味のかけらを途中で取り逃がさずに手中に収めることができる。

きょうのおすすめ

ゼミを主催する森田真生さんの処女作。アラン・チューリングや岡潔を引きながら、数学で「表現」する森田さん。ぼくがゼミまで受講しようと思った理由は、数学による「表現」という部分に惹かれたからかもしれない。

数学は、いやあらゆる学問は突き詰めればアートなのかもしれないと思うと、なぜかあたたかい気持ちになってくる。ひとつの正統があり、他を否定して己の論を主張する世界も、結局は確かな意味なんてなくて、みんなそういうゲームをやっているのだ。

数学の本だけに、決して物語的感動があるわけではない。それでも第四章「零の場所」の最後の一文は感動的である。

ここでは森田さんの学問に対する想いと、日常生活への想いが現れた2つの部分を引用しておこうと思う。学問も生活も地続きなのだ、と気づかせてくれた。

生きることは実際、それだけで果てしない神秘である。何のためにあるのか、どこに向かっているのかわからない宇宙の片隅で、私たちは束の間の生を謳歌し、はかなく亡びる。虚無と呼ぶにはあまりにも豊穣な世界。無意味と割り切るには、あまりに強烈な生の欲動。その圧倒的に不思議な世界が、残酷なまでに淡々と、私たちを包み込んで、動き続ける。

不思議で不思議で仕方ない。この痛切な思いこそが、あらゆる学問の中心にあるはずである。(第四章「零の場所」より)

そして、平坦とは言えない独立研究者の道を、共に歩んでくれる妻。いまもふと目を挙げると、彼女に水をもらった庭の植物たちが、嬉しそうに日の光を浴びている。心は他(ひと)と通い合うものだと私に教えてくれたのは彼女の存在である。

最後に、私の創作意欲を私の知らないところで支えてくれた、見えない風、道端の蟻、土中のミミズや遠く離れた無数の星雲に感謝したい。これは、筆者の想像もしなかったものたちによって書かれた本なのである。(あとがきより)

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