漫画版「風の谷のナウシカ」に見る現代の生き抜き方

漫画版風の谷のナウシカを読了した。これで3回目である。最後のひとコマを読み終えたときは「生きねば…」と毎回同じ感想を抱くのだが、本編の内容は読むたびに違った物語として読めてしまう。ナウシカに飽きない理由はここにある。

読み終わったあとはしばらくぼうっとして、窓の外に見える木々をめちゃくちゃ愛おしく感じたり、王蟲のぬいぐるみがほしいとか思ったりしていたのだが、意識(?)が回復してくるにつれてあるひとつの想念がまとまってきた。

生きるとは自己決定すること

というものだ。

以下、コアなネタバレを含むのでご注意ください(ただ、漫画版ナウシカはあらすじを知ってから読んでも充分楽しめるものだということを書いておきます。そして未読の方はぜひ漫画を読んでいただきたい!)。

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長い浄化の時が始まったのです

「長い浄化の時が始まったのです」という言葉がキーポイントで登場する。簡単に言うと、人間にとっては猛毒の「瘴気」を放つ腐海が大地を覆い尽くす日が来るのです、人間はそれに殉じなさい、という思想である。のちに明かされるが、蟲たちが住む腐海とは実は旧世界の人間がつくり出した人造の生態系であった。

ナウシカが生きる時代より1000年前、旧世界の人間は愚かな戦争を繰り返し「火の7日間」というカタストロフによって滅びた。その破滅のなか、科学者たちは当時の生命科学の知見を結集させて腐海をつくり、汚染物質にまみれた大地を浄化する機能を持たせた。大地をすべて浄化すると同時に腐海は消滅し、世界は清浄なものとなり、保存されていた人間の卵(!)から人類は復活するようプログラムしたのだ。

浄化が終わるそのときまで技術が失われないように守るため、わずかに残った人間は腐海のほとりでも生きられるように改造され、細々と生きてきた。この黄昏の時代を生きるのがナウシカたちである。

ところがナウシカたちは浄化された清浄な空気のもとでは生きられない。腐海に適応するよう改造された身体は清浄な空気を受け付けず、肺から血を噴き出して死んでしまう。

彼らが唯一清浄な世界に住めるようになるとすれば、旧世界の技術が温存されている「墓所」を維持し、腐海が役割を終えたときに再び身体を改造して清浄な空気にも耐えられるようにつくりかえることだという。しかし墓所の高度な科学技術は、ほとんどの技術を失ったこの時代の人びとにとって争いの源となっていた…

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目の前の生命と向き合う

ナウシカは結局墓所を破壊し、旧時代の技術を葬り去ってしまう。これは虚無だろうか。

前回読んだときは、この点についてかなり悩んだ記憶がある。ナウシカは生きることを説きながら人類復活のチャンスを自らの手で断ってしまったのではないかと。ナウシカについて考察したサイトをめぐりながら、ナウシカは救世主ではないということがなんとなくわかった程度であった。

自己決定という視点からこれを眺めてみると新しいビジョンが立ち上がってくる。

ナウシカが現在を生きている生命の自己決定をなによりも大切にし、自己決定の放棄を虚無と呼んだとすれば、墓所の破壊はとても明快な行為となる。旧世界の科学者が描いた未来像どおりに生きることのほうが虚無であり、自己決定の放棄であるからだ。

たとえば腐海に住む王蟲は所詮は人間によって生み出された人工生命に過ぎない。しかも目的を持つ生態系という不自然で不吉な世界に住んでいる。しかし、彼らだって怒ったり悲しんだりしながらその瞬間を精一杯生きている。それこそが生命であり生きているということだ。

あるいは人間だってそうだ。ナウシカたち人間は、腐海に適応できるよう旧世界の技術によって改造されてしまった。しかし彼らもまた一瞬一瞬を生き抜いていることにかわりはない。争いの絶えない世界にいながらも懸命に生きている。

墓所は旧世界のひとびとの自己決定の賜物ではあろうと思う。彼らは彼らでなんとか人類を滅亡から救いたいという一心で腐海をつくり出し、墓所に技術を託した。滅亡のさなかにあって必死に生きていたことは想像に難くない。しかしそれが現在を生きるナウシカたちの自己決定を奪うとしたら…

ナウシカは自分で、自分と出会う人や蟲に向き合いすぎてしまうという主旨のことを言っていた。目の前の生命と真摯に向き合い、いまを生きることの偉大さを知ったナウシカは、旧世界への隷属を拒否したのである。

われわれはどうか

翻って現代社会である。ぼくたちは自己決定しているだろうか。自己決定できていないと自覚しているうちはまだいい。自分では自己決定していると思っているが実はこれが他人に仕組まれた偽りの自己決定、なんてことは消費社会ではよくあることだ。

自分ひとりのなかにも自己決定にまつわる大きな問題がある。過去の自分と現在の自分との衝突だ。乱暴に図式化すれば、墓所=過去の自分、ナウシカ=現在の自分となり、ナウシカからのメッセージはやはり今を生きろということになる。

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正義論なのか

では実際にどうやって今を生きればよいのか。自己決定の方法についてもナウシカはヒントを示してくれている。

ところで、ナウシカの置かれた状況は正義論から捉えることもできそうに見える。ひと昔前、「これからの正義の話をしよう」で流行したマイケル・サンデル教授の公共哲学だ。

サンデルの公共哲学については詳しくないのだが、暴走トロッコが走る線路の転轍機を操作して5人を救助し1人を見殺しにするか、転轍機を操作せず5人を見殺しにするか、という有名な思考実験があった(気がする)。

ナウシカと墓所の主との対決を、過去の自己決定(これを尊重すれば人類は復活し将来の大勢を救えるが、ナウシカたちの自己決定は奪われ、争いの火種もなくならない)を善とするか、現在の自己決定(これを尊重すればナウシカたちの自己決定は守られるが、「浄化」が終わったあと人類は滅亡する)を善とするかの選択と考えれば、思考実験の状況に似たものとなる。

具体的状況に飛び込め

しかしこれはやはりサンデル的、公共哲学的状況だとは思えない。ナウシカは「正義」なんて考えていなかったはずだからだ。

作中のナウシカがきわめて論理的に取るべき行動を決定したシーンがあっただろうか。虚無との闘いの中でナウシカはたびたび論争をするが、そこに完全な論理性や客観性はない。虚無に呑まれそうになるときはいつもテトや王蟲や森の人などの生き物の声によって踏みとどまる。正義のことを考える様子は微塵もない。

もしサンデルの白熱教室にナウシカが参加したら、議論の間は沈黙を守り通して終了し、いざ実際に自分が転轍機を操作することになってはじめて決断するのではないか、そんな気がする。

ナウシカは常に自分の目の前に現れる人や蟲や自然に向き合い、そのときその瞬間どうすれば良いかを考えて行動している。具体的状況を剥奪された客観的シチュエーションなんてものは存在しない、常に私とあなたとの1対1なのである。

関連:客観的思考は、いま・ここ・わたしを排除する

ナウシカの行動からメッセージを汲むとすれば、

脳のつくり出す思考に頼りすぎるな、とにかく具体的状況に飛び込め

ということなのだろう。

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現代の必読書、風の谷のナウシカ

漫画版ナウシカを読むならアニメージュ・コミックス・ワイド版がおすすめだ。使用されている紙の質感がナウシカの世界感をよく表しているように感じる。大阪に来てから実家にあるものとは別に新しく買ってしまった。それぐらい手元に置いておきたい漫画である。

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