ひとり回転寿司のススメ

外出先でどうしてもお腹が空いてしまい、やむなくひとり回転寿司を行なった。

回転寿司というものにあまり縁のない生活をしてきたので、そもそもどういう層が回転寿司を利用しているのかわからない。
ひとりで入ったら浮くだろうか…などと考えていたが、実際に入ってみるとカウンター席に通されひとまず安心した。まずはお茶を飲んで胃を準備する。

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最近の回転寿司には高速レーンなるものがある。目の前を通過していく寿司たちが好みでなかった場合、個別に注文するシステムである。高速で目の前にやってきて、寿司を取ると入れ物は元来た道を帰っていく。回転はしない。
今回ぼくはこの高速レーンは使わないことに決めた。あくまで回転する寿司だけで腹を満たす。

アドラーも言っている。
「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」
ちょっと違うか。

ひと皿目はフグの寿司であった。ネタが少しお高いのであろう、一貫100円。続いてエビ、イカ、タコと好きなものを頼むのだが、どれもうまい。普段からろくでもない食生活をしていると二貫で100円の回転寿司もおいしく感じられる。

華美な生活を避け、幸せを感じるレベルを下げておくと、些細なことにも幸せを見出すことができるようになる。幸せの閾値を下げることはぼくの最近のテーマであって、日々の暮らしの中に小さなよろこびを探してまわっている。「夢中」と「手作業」がキーワードではないかと思っているのだがまだ考えが煮詰まっていない。

回転寿司でのぼっち飯は、普通のファミレスでのぼっち飯に比べてあまり孤独感がない。目の前に動くものがあるからだろう、退屈しないのだ。赤ちゃんの上に吊るすアレと同じ理屈(?)である。

目の前を通り過ぎてゆく寿司や皿を見ていると、己の雑念が洗われるようだ。

お腹は着実に満腹へと近づいてゆく。

ここで食べておかなかったら当分ありつけないであろうネタが目の前を通り過ぎていくが、正直もう魚介はいいかなという気分になってきた。玉子が食べたい。しかし、せっかく回転寿司に来て貴重な1皿を玉子に費やしてしまってもよいのだろうか。もっと普段は食べられない魚をいただくべきではないのか。だがしかし身体は玉子を欲している。ああ…

ところで、人生最期の食事はなにがいいだろう。やっぱりごはんとみそ汁?いやいや卵かけごはんだろうか… そのときその瞬間に食べたいものを食べて死ぬのが一番か。未来の食欲なんか予測できない。

この意味でも回転寿司はとても勉強になる。自分はなにが食べたいのか一皿ごとに問いかけながら食を進めることになるからだ。普段の食事では外食だろうと自炊だろうと、その一食で食べるものは食事前にだいたい決まっている。頼んだメニューの内容であったり、つくったおかずの量であったり。

だが回転寿司は違う。あと一皿取るか取らないか、決断の連続だ。毎日を惰性で食べている現代人にとって、これはなかなか得がたい経験に思う。本当にそのネタが食べたいのか、常に身体との対話をせねばならない。

ぼくは決断し、玉子を食べた。

回転する寿司を見ているとどうも精神のスケールが大きくなるようで、催眠術とはこういうものかもしれないと思った。「回転」や「繰り返し」は大きなものとつながる入り口なのかもしれない。輪廻、永遠回帰、万物は流転する…

いま気づいたのだがぼくは寿司屋に行くと考える癖があるらしい。

関連:理系に寿司をおごるぼく「支払い額に含まれる最大の素因数分だけ出してくれ」

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