生産も消費も、すべては練習だ

ぼくは練習というものが好きだ。これまで二十数年間生きてきてさまざまなものに熱中してきたが、それらをひとことで括るなら練習に尽きると思う。

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練習

10代前半はペン回しやBMXにハマり、後半になるとジャグリング、ギター、語学を好きになった。どれも練習を必要とするものばかりである。語学と音楽が同じカテゴリだという話をすると驚かれるが、練習を基点に見ればそこまで異質なものではない。

語学を勉強するときはよく音読をしていた。音読はまさに練習といった感じである。書かれている文章を読み、実際に口に出して発音し、その発音が適切かどうかを自分の耳で聴いて判断する。このような身体的なプロセスは他の科目にはない(体育ぐらい?)。

ギターの練習も基本的にはほとんど同じプロセスで行う。譜面を読み、実際に音を出し、その音が適切な音量やタイミングで出されたかどうかをチェックする。

ぼくはこのプロセスをたどっているとき、楽しさを感じるのだ。

生産・消費

ところで、さいきんは作曲や床張りに関わることが多くなって生産と消費についてよく考えるようになった。

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世界には生産という側面を持つ楽しさと、消費という側面を持つ楽しさがある。世の中で娯楽として広く認知されているのはほとんどが後者であって、前者はあまり表に出てこない。どうしても消費のほうが楽しさの一般項になりやすいのでしかたないとは思うが。

映画館や遊園地などはどんなひとが訪れてもだいたい楽しめる。これは消費的楽しさの典型である。しかしたとえば作曲をみんなでやりましょう、ということになってもそれを楽しめるのはほんの一握りだろう。生産は消費に比べてエネルギーを要する。そのエネルギーを投下してもよいと思えるほどの愛着を感じていないと楽しむのは難しい。

練習と生産・消費の関係

生産と消費という文脈で改めて練習について考える。すると練習には生産と消費の両方が含まれていることがわかってくる。

練習というプロセスのなかで、身体の外にある情報を内に取り込む行為を消費、取り込んだ情報を咀嚼して再び外に出す行為を生産と捉えることができる。

つまり練習とは消費と生産を繰り返す営みなのだ。

すべては練習なのではないか

ここまで考えてきてはたと気がついた。ぼくがこれまで消費的な楽しさ、生産的な楽しさと勝手に分類してきたものは、実は大きな練習の一部だったのではないか。

わかりやすい例としては、映画を観てインスピレーションを得て作曲するといったことである。映画を観る、作曲するといった個々の行為レベルでは消費と生産だが、視点を高くとるとこれは全体で1つの練習だということになる。

インプットとアウトプットのバランスが大事などと言われるのも、要は「ちゃんと練習せよ」というメッセージなのだ。

バランスポイントを知る

ここ数週間、休日は家に引きこもってソロギター曲の作曲、編曲、録音をしている。そろそろ外の空気を吸いたい。小川の流れがみたい。秋の景色を味わいたい。

生活が生産に偏り過ぎだから、少しは消費もしなさいという身体からのメッセージだ。

こういうときは素直に従うのがよい。

生産が得意なひと、消費が得意なひと。いろいろなタイプのひとが存在する。だが完全に生産だけしかしない、消費だけしかしないひとはいないだろう。誰もがみな自分の中のバランスをとりながら生きている。

自分がもっとも楽しいと感じるバランスはどこにあるのか。それを知ることがよりよい練習のための第一歩なのだ。

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