「努力すれば報われる」がブラック競争社会からの脱出を阻む

競争から降りることは難しい。まわりの誰もが競争をしている中で自分ひとりが脱出するのも難しいが、競争を降りたつもりでいてもいつの間にか新しい競争が発生していることもある。厄介である。

スポンサーリンク
レクタングル大

ユビキタス競争社会

礫川全次氏の新書「日本人はいつから働きすぎになったのか」によれば、外的に強制された過剰なハードワークでは過労死に至ることはないが、内的自発的なハードワークは容易に過労死をもたらすということが述べられている。

ぼくらがよく陥る他人との比較競争ゲームにも、安全地帯というものは存在しないのではなかろうか。

もちろん競争圧の高い場所(出世競争が激しい会社、一番を競うスポーツの世界など)やそうでない場所などのムラはある。そういった場所が肌に合わないのであれば逃げることも大切である。だが競争圧の低い場所にいたとしても、自分と環境の関係によっては苛烈な競争が誕生してしまうのだ。

努力すれば報われる

自分で自分を追い込んでしまう最大の理由はなんだろう。ぼくの現時点での答えは努力への信仰である。

日本では幼いころから明示的にも暗示的にも努力はいつも善であり、努力は必ず報われると教え込まれる。そしてこの教育は、それが教えられたものであるとは気づかないほど浸透してしまっているので、疑うのが大変に難しい。

そういう日本人が「インドに行って価値観が変わった」と言うのは、物心ついてから現在まで無意識に信じてきた、人生を生きるための基盤のようなものを揺さぶられるからではないだろうか。

自発的隷従

「努力すれば報われる」を信じているひとは、比較競争ゲームに巻き込まれたとき、自分も人一倍努力すれば勝てるのではないかと思ってしまう。そうして自ら進んでブラックな環境に身を置くこととなる。

「日本人はいつから働きすぎになったのか」では、これを自発的隷従と呼んでいる。二宮尊徳(金次郎)や浄土真宗の教えを参考にしながら日本における「勤勉」精神をひもとく中で、自発的隷従に陥りやすい日本の環境を指摘している。

古代生物は過労死しただろうか

だが、その前に思い出したい。その競争ゲームに勝ったところで何になるというのか?どんなに長くても100年経ったらチリになってしまうのに?

ぼくは最近、文明以前の人類の歴史や古生物の進化史に興味がある。オパビニアとかハルキゲニアとか、つかみどころのない生き物をみていると落ち着くのだ。そういう一般的な意味では役に立たない時間や行為こそ、生きるということにもっとも深く関わっているような気がしている。

スポンサーリンク
レクタングル大
レクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする