幸せの寝坊論 寝坊によってわかる人生

休みの日にめずらしく昼過ぎまでだらだらと布団の中で過ごしてみたら、ある考えがまとまってきた。

寝坊するから幸せなのではなく、幸せだから寝坊できるのだ。

というもの。これの具体的な話に入る前にちょっとだけ前置きを。最近のテーマである一体感と分離感について。

スポンサーリンク
レクタングル大

一体感が人生を幸福にし、分離感が人生を駆動する

ここでいう一体感というのは、現在の自己イメージと理想の自己イメージが一致している状態のこと。「いま住んでる家は理想の家!」とか、そこまでいかなくてもそこそこ満足してる状態なら、それは一体感を感じていると言えるでしょう。

分離感とは、現在の自己イメージと理想の自己イメージが乖離している状態で、「もっと広い家に住みたい!」などの欲望が渦巻いているなら、それは分離感に分類されます。欲望は基本的に分離感を感じるときに現れます。

一体感と分離感、どちらが善くててどちらが悪いという問題ではありません。暮らしの中でほどよいブレンドを目指していくものだと思うのです。

一体感と分離感のバランスに個性が出る

ぼくはおそらく分離感を感じやすいタイプだと思います。勉強とか練習とか技術の習得とか好きですしこのままなんとなく生きて死ぬのは嫌だと思っている(実際になんとなく過ごせる訳はないのですが)。

こう書くとモチベーションに溢れた人みたいですが、よいことだけではありません。自分で自分を追い立ててしまうがゆえに、環境が変わって生活がうまく回らなくなり精神的に参ることも多い。分離感というドライブ装置を解除してやるのがけっこう難しいのです。

日常の中で分離感が優勢なときは、休日も平日と同じ時間に起きます。「寝てる暇はない!」なんて思っていろいろがんばる。

でも分離感というのは基本的に辛いものです。理想の自分が別に存在するということは、いまの自分を否定することだから。

そういうとき、生活リズムを一体感のほうに少しだけシフトできると楽になる。ここの見極めが重要だと思ってはいるのですが、なかなか思うようにいかないものですね。

エンドレス・ライフ

生活には終わりがありません。「死ぬから有限だよ」と言われても、正確にいつ死ぬというリミットが提示されていない以上、リミットを目標に生活していくことはできない。その意味で生活には終わりがないのです。

だから受験勉強あるいはオリンピックのような、リミットに向けてピーキングするような生活スタイルを日常的に用いるのは不可能。受験生のような生活スタイルを、明日受験するのか10年後受験するのかわからないような状態で維持するのはどう考えてもできそうにない。リミットがなくても持続可能でなければならないのです。

寝坊による自己点検

さて、ほとんど前置きとなってしまいましたが寝坊の登場です。

休日に、なんの後ろめたさもなく綺麗さっぱり爽快に寝坊できるだろうか?

この自問がけっこう有効な気がします。寝坊による自己点検。

「休みだ!寝坊だ!すやあ…」といって18時間寝て後悔しないなら、一体感に満たされて最高の幸せを享受しているのでしょう。ある意味悟りの境地とも言えるかもしれません。うらやましい。

逆に「ああもう昼だ…寝坊してしまった…」という後悔が頭にこびりつくようであれば、それはあまりよくない寝坊かもしれない。本当は起きてやりたいことがあったけれどつい寝坊してしまったというのは、分離感による生活の駆動が寝坊によって妨げられてしまったことを意味します。

寝坊したあとこうやって「寝坊とは何か…」などと振り返ることなんてそうそうないと思うので、1回ぐらい考えてみてもよいのではないだろうか。

寝坊するから幸せなのではなく、満たされているから寝坊できる。寝坊は手段ではなく結果。寝坊は生活のバロメータ。

万国の生活者よ!寝坊せよ!

スポンサーリンク
レクタングル大
レクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする